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街道をゆく 対馬の道3

195ページ
『「阿比留氏はこの鶏知にいるんです」というのである。
いる、と現在形でいわれたことにふしぎな感じがした。阿比留氏はすでにほろんでしまっている。平安初期から鎌倉期までという長い期間、大宰府の在庁官人という資格でこの対馬をおさめ、この鶏知を根拠地にしていた。そういえば鶏知は治所になるだけに、当時から島内でも有数の水田地帯であったかと思われる。』

槇の木 在庁跡か?
1槇の木 (640x476)
旧美津島町教育委員会が設置した説明板には、この付近一帯が「阿比留在庁」であっただろうという説明がある。かっては陸軍病院があり、その後を受け国立病院そして今は特別養護老人施設などがある。

195~196ページ
『阿比留氏の氏神は、海神であっただろう。海神が中世になって多く住吉社になったように、
この鶏知の場合も住吉社になった。・・・中略・・・「この山の上に住吉さんがあります」
阿比留氏が鶏知にいる、といった永留氏のことばの意味がようやくわかった。』

住吉神社参道
2住吉神社 (640x480)

住吉神社本殿
3住吉神社 (640x480)
最近、建て替えられた


196ページ
『「あれは官舎です」
永留さんは、国道に面してならんでいる木造の規格型の家々を指した。
「鶏知になにか国立の機関があるんですか」
「国立病院があります」
永留さんがいった。
「あれはその病院の官舎ですか」
「いいえ、あれはもとの陸軍の要塞司令部の官舎です」
私は車窓に顔をくっつけて、官舎の垣根の蔓バラを見た。』


現国道から見た西高浜の官舎跡
4官舎全景 (640x480)
ガードレールの向かい側に見える所が官舎跡
上の段は10年位前に山の斜面を削って開発された民間の団地

二軒長屋の官舎 右側の家の屋根は当時のまま
5官舎 (640x480)

一戸建ての官舎 たぶん将校さん用か?
6将校官舎 (640x480)


197ページ
『鶏知は水田地帯だけに、阿比留氏以前の遠い世から対馬の治所であったかもしれない。「魏志」倭人伝に出てくる「大官を卑狗(彦?)といい」というその三世紀の首長もまた鶏知にいたのではないか。
鶏知には、古墳も多い。前方後円墳も一基ある。それも古い形式で、山の峰の地形が利用されている。「えびすがくま」という峰の頂上にあるのだが、昭和26年に九学会連合調査団によってはじめて調査がおこなわれた。前方後円墳というのは大和で発生し、発達した。』


えびすがくまと鶏知川 出居塚は頂上にある
7えびすがくま (640x478)


後方部から石室側を見る
8出居塚 (640x476)


石室部
9石室 (640x480)


説明板
10説明板 (640x473)


九学会当時の調査で「前方後円墳」とされた「出居塚」は、その後の調査で「前方後方墳」と改められた。
この時の実測測量は永留久恵氏の指導の下、最新鋭の光波測距儀等を駆使して実施した。
「実施した」と書いたのは、私もこの測量に携わっていたからだ。
(測量図は、「対馬国志 第一巻 161ページ参照」)

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街道をゆく 対馬の道2

181ページ

告身について書かれているが、184ページの文中『・・・は対馬の竹敷の早田忠三郎氏・・・』
とあるが、尾崎の早田忠三郎氏だろう。



尾崎の早田家
1早田家 (640x470)


189ページ
やがて一行は博物館を出てマイクロバスに乗り込む。

『まことに対馬は海国であるということが概念にすぎないのではないかとおもわれてくるほどに山またやまである。まれに道路の右側に海が隠顕したりすると、ほっとする。まことに「魏志」倭人伝に、
山険しく、深林多く、道路は禽鹿の径の如し
と書かれている三世紀の姿は、こんにちの縦貫道路をのぞいてはすこしもかわらない』



道路の右側に見えた根緒島と海 旧道より撮影
2根緒島 (640x472)



190ページ
『山は、樹々を肥らせようもない岩山で、どの木も痩せている。たいていの岩が自然のまま横に割れており、ときには岩肌が茶色っぽい瓦を無数に積みあげたように露出している。』

法面にむき出た頁岩
3岩肌 (640x480)



191ページ
『蒙古襲来に出遭うのは、右の初代重尚のあとを継いだその末弟助国(資国)のときである。・・・・中略・・・・対馬へ蒙古軍がやってきたのは文永11(1274)年十月5日の
午後4時ごろであった。かれらを乗せたおびただしい数の艦船は朝鮮南端の合浦を発し、
対馬の西北の海をよこぎってその一部が西海岸の佐須浦(いまの小茂田)に着き、碇をおろした。』


小茂田浜神社
4小茂田浜神社 (640x480)



5説明板 (640x474)



6武士 (640x480)



街道をゆく 対馬の道1

「街道をゆく 壱岐・対馬の道」の対馬編は138ページの「厳原」から始まる。

一行は厳原港に夜8時過ぎに降り立つと宿までタクシーを利用するが、
このタクシーの運転手の所作で対馬の印象を悪くしてしまう。

139ページ
乗ってから行き先を告げても、運転手さんは返事をしなかった。
わずか10分ばかりの距離であったが、城下町の名残をのこす小路から小路を、すさまじい
勢いで暴走した。

中略

そして壱岐の運転手と比較し(壱岐は農業国なのだ)と、農村文化と漁村文化との違いを理解して、対馬の初印象をわるいものにすまいとつとめる。

「壱岐・対馬の道」が週刊朝日に連載されたのが1978年(昭和53年)2月3日号~
8月25日号だ。
一行が対馬を訪れたのが11月というから、前年の1977年だろうか。
当時、タクシーの運転手さんたちの評判は確かに悪い。(今はよくなったと聞いている)
空港や港で客待ちをして「短い距離の客」に当たると露骨に嫌な顔をしていた。

私は博多駅で経験した。
普通は歩いて行ける距離だが、雨が降っていてオマケに重い荷物を持っていた。
行き先を告げると、返事もなく急発進、暴走運転だ。
目的地に着いた時、正直ホッとした。
普段は基本料金でも千円札を渡しお釣りはいらないというが、その時はきっちりお釣りを
貰い、「苦情を受付けるお客様センター」に会社名と運転手名を電話したが結果は分からない。

話がそれてしまった。
タクシーは厳原港から宿舎の対馬交通ホテルに到着する。
今、そのホテルは解体され、周辺の建物と再開発事業により対馬市交流センターが建っている。

147ページ
厳原の対馬交通ホテルの邸内に小さな祠があり、「あらおどん」とよばれている。
いつの頃からか、「志賀の荒雄の墓」という。
と、『対馬古跡探訪』の一文を引いている。
「あらおどん」は、再開発の時に移設される予定だったのだろが、未だに行き先が決まっていないようだ。

152ページ
雨森芳洲の墓参り


またまたタクシーの話
157ページ
神野さんが、タクシーの営業所できいてくれた。たまたま一台、タクシーが帰ってきたので、いっそこれに乗ろうとしたが、めしだからだめだ、とことわられた。
    
 中略

158ページ
「ここです」
と、運転手が不機嫌そうにいったが、寺がない。よく見ると、左手にさらに坂が50メートルつづいていて、その上に山門が見えるかのようであったが、運転手は左折することを面倒がり、ともかくも二人の客をおろした。以下、略・・・



厳原港のターミナルビルとフェリー
フェリー (640x480)
一行が乗船したフェリーではない
また、今は午後の2時ころと未明の4時半ごろに入港するようだ



雨森芳洲の墓 日吉の長寿院にある 道程と周辺はよく整備されている
芳洲の墓 (640x480)



大手橋の小路
道路1 (640x480)


ここを左折してさらに上る
左折箇所 (640x480)
私は徒歩で行ったが、軽車両でも躊躇するような左折場所だが、上の方の駐車場にはワゴン車などの普通車があった



国昌寺
国昌寺 (640x480)


タクシーの営業所というのはおそらく「対馬観光タクシー」だろう。
泊まっていたホテルのすぐ傍にタクシーの営業所があった。
この会社は今、倒産している。親会社の対馬交通は補助金で成り立っているようなものだ。
当時、労働組合の力が強く、経営者が二人いるような会社みたいであった。
タクシーの運転手をしながらバスの運転手の空き待ちをする腰掛の会社といったら言い過ぎだろうか。
潰れるべくして潰れた、これも言い過ぎだろうか・・・


     「街道をゆく 対馬の道2」に続く・・・

街道をゆく 壱岐・対馬の道

最近は時間が余りあるほどあるので、前に読んだ本を読み返している

読んだ時の年齢や環境が多少なりとも違うので、読後感もまた違う、ような気がする

以前、読破した本類は倉庫の中に整理した?ままで、読みたい本を探しても「整理」されていないので、

読みたい時に読めないのが実情だ

たまに倉庫の中で探しあてた本はかび臭く、読んでいるうちに目がショボショボしてくる

・・・が、年金生活の身であるので、新たに買い求めることは許されないことである

本を読み進める途中、途中で、ショボつく目を洗いながらページをめくることになる

先日、改めて司馬遼太郎の街道をゆく2「韓のくに紀行」を、カビ臭いまま、目をショボつかせながら読んだ

当然ながら、「んッ?対馬に関する記述が・・・」と、受け取り方が違う

どうゆうふうに違うか?と言われても困るが、確かに違うのだ

何故そう感じたのか?確かめるために、

倉庫に行き「街道をゆく 壱岐・対馬の道」の文庫本を探すが、元来ズボラな性格なため、整理していた?場所が

分からず、すぐに探し出すことが出来ない

公民館の「図書室(図書館ではない!)」に行けばあるだろうと安易な気持ちで出かけた

そこには旧知の館長さんがいた

「すいません、図書室、いいですか?」  「ハイ、どうぞ!」

合併前の図書室とは中味が様変わりしていて、目ぼしい書籍がないし冊数も少ない(整理中なのか?)

合併前にはあった司馬遼太郎の「坂の上の雲」や「竜馬がゆく」などの代表作でさえ本棚に並んでいない

読みたい本があったとしても、また借りたい郷土関係の書籍のほとんどには、

本の背表紙の下側に「館内」のシールが貼ってあった


事務室に引き返して尋ねた

「あの館内シールの本は、ここで読むってこと?」

「ハイ、そうです!」と明快な答えが返ってきた

「禁帯出」は辞典類とか旧町の「郷土誌」や「町村誌」など、ま、貴重と思われる書籍類には

以前から貼ってあった

そのことは理解できる・・・が、例えば「宮本常一の文庫本」やその他の「文庫本」を含めた

「単行本や雑誌?(ちょっと言い過ぎか!)」類までが「館内」シールが貼ってあり、

借り出すことは不可能だった

6町が合併して、島びとの心がすさんだのか、返却されない書籍が多いから、止む得ない処置なのか!

借りるべく本がないので公民館を辞して近所の本屋さんへ行く

書店の書棚には「目的の本」があることは前もって承知していたし、本を求めるための準備もしていた

売れずにまだその文庫本は私を待っていた

その文庫本を手に取り、相方に貰った「500円分」のサービス券を会計に差し出した

本体価格580円+税の文庫本は109円の手出しで私の物となった

軽い昼食の後、一気に読んでしまった

ずーーっと前に読んだ時の、司馬遼太郎に対する(というか、彼の対馬感?)誤解が氷解した

厳原港に着いてタクシーに乗りこみホテルまでの道中、作家等が感じ、表現した(文章にした)その一部を読んだ

だけで、この偉大な作家に「反感みたいなモノ」を持っていたのだ

その問題のタクシー運転手の態度に対し、「漁労民族」「農耕民族」との「気質の違い」というふうに「理解」を示し、対馬の初印象を悪いようにしないと書いている

一夜明けて司馬遼太郎、金達寿氏、李進熙氏等の一流の文化人たちと地元の永留久恵氏が同行し、

厳原から佐須奈までの旅を書いた作品



この「街道をゆく 壱岐・対馬の道」をページ順に、または順不同で写真を交えながら紹介したい


先に読んだ韓のくに紀行
韓のくに紀行035 (640x438)


壱岐・対馬の道
壱岐・対馬の道036 (640x442)


まずは夜八時の厳原港の様子から・・・

あ、今はこの時間帯に入港するフェリーはいない・・・

写真取材と並行しながらの更新となります  ^^;


対馬文学散歩Ⅱ

「韃靼の馬」は日経に2009年11月1日から2011年1月21日に亘り連載された新聞小説だ
私が購読している新聞は日経ではないが、たまに日経を手にした時に目を通す程度だったので
あらすじは分からないが対馬藩、朝鮮通信使、倭館・・・の文字からその都度、小説の中身を私の貧弱な頭の中で想像しながら読んだりした

今月のある日、地元書店の「郷土の本」のコーナーに単行本を発見、すぐに買い求めた

対馬藩主23代宗義方(そう よしみち)に仕える阿比留克人(あびる かつんど)という若い武士を主人公に、雨森芳洲、新井白石、朝鮮通信使の一行などが登場、ついにはモンゴルの地も
舞台になる壮大な時代小説だ
「国書改竄事件」の当事者19代藩主宗義智(よしとし)の玄孫(やしゃご)に当たる義方、
江戸家老の柳川調信の玄孫として登場する柳成一(ユ ソンイル)が克人の好敵手として絡む

文中、克人の婚約者が一人、阿須から歩いて鰐浦に現れたり、キタタキがけたたましく鳴いたり、
またツシマヤマネコの親子が鰐浦の民家の庭先に出現するなど「?」と思うようなところもあるが
18世紀を舞台にした小説ということを考えれば、対馬の宣伝もありか!!と軽く流そう

しかし、334ページの8行目から「・・・国書を改竄してまで通信使来聘を実現させた立役者が
調興であり、克人はその人物の孫と(成一のこと)・・・」は史実とは違う

小説で「柳成一」は「柳川調興の孫」という設定は構わないが、国書改竄に関わったのは
「調興」の祖父「調信」であり、「調興」は対馬藩が「国書を改竄した」と幕府に暴露した「柳川事件」の張本人である

柳川家の系図を分かりやすく書くと
調信(国書改竄) → 智永 → 調興(柳川事件で津軽に流罪) → 調永(小説では津軽から日本を脱出して朝鮮国に行く) → 柳成一(ユ・ソンイル、父調永と朝鮮人の母をもつハーフ)

   作者は小説を書く前に史実等、取材をされていると思うが、まぁ何かの勘違いだろう!とここも軽く流そう


作者は「村の名前」で1990年に芥川賞を受賞した「辻原登」
実名で文中に登場する歴史上の人物に創作を交え展開していく物語は、飽きることなく一気に読ん
でしまった

挿絵:宇野亜喜良


辻原登氏本人の談
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201108250188.html

東北大教授の野家啓一氏の書評を読むことが出来る
http://www.yomiuri.co.jp/book/review/20110905-OYT8T00327.htm


            小説の表紙カバーと帯
1韃靼の馬013 (640x415)


           鰐浦まで一人で歩いたという小百合さま
2韃靼の馬2014 (546x640)


一部と二部の構成でなる「韃靼の馬」・・・暇がある御仁は読んでみては如何でしょうか (*^_^*)

プロフィール

テマドハルベ

Author:テマドハルベ
団塊世代、もうすぐ後期高齢者。
花鳥風月、なんでもありのブログです。

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